(曽根天満宮の始まり) |
延喜元年(901)菅原道真公は無実の罪により九州大宰府へ左遷される。その途中伊保港に船を寄せて、曽根天満宮西方の日笠山に登られ「我に罪無くば栄えよ」と祈って山上の小松を植えられた。これが霊松(れいしょう)曽根の松で、現在も幹が保存されている。
その後、四男淳茂公(あつしげこう)が、家臣13人と共にこの地を訪れ、父君ゆかりの場所に社殿を建てお祀りしたのが創始とされる。天正6年(1578)豊臣秀吉の播州征伐の際兵火にかかり社殿を焼失するが、天正18年に寺沢越中守を奉行として本殿を再建し、社領10石を寄せた。慶長14年(1609)には、徳川家康の息女で姫路城主池田輝政の側室である督姫の寄進により拝殿を建立、慶安元年(1648)3代将軍家光が朱印領30石を寄せ、以後累代の将軍はこれに習った。
さらに、徳川光圀が菅公廟記を撰し霊元院が和歌を奉納するなど御神威は各地に聞こえ、参勤交代の途次参拝する大名も多くなった。特に鹿児島藩主島津公は、霊松の枝で天神像を刻み国元に持ち帰りお祀りしたという。また、伊藤東涯(いとうとうがい)が『研松記』を頼山陽(らいさんよう)が『霊松詩』を奉納している他、小林一茶、シーボルトなど文人墨客が数多く訪れ、詩文を献上している。 |
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